川端康成『雪国』(2017)

いつからか毎年のように読んでいる川端さんの『雪国』。
2016年は残念ながら読めなくて、年が明けてから読みました。

これまでは島村や駒子といった人間に焦点をあてて読んできましたが(というか、そういう読み方しかできなかった)、今回、おそらく初めてじゃないでしょうか、最後の章に感動を覚えました。
ので、感じたことを書きとめておきます。

私が読んでいる新潮文庫の巻末には、伊藤整の「雪国について」という解説も掲載されています。
これまでこの作品を「島村」「駒子」または「雪国」を主人公とした物語、としか読めないでいましたが、今回新しい視点を見つけられたことで、この解説の意味も少し、わかったような気がしました。
その伊藤整が「美の抽出」という言葉を使っていて、これが今回の私の読後感に非常にしっくりくるものでした。

「島村」という男の目を通して(彼が周囲の現象から抽出する)「美」を感じる作品として『雪国』を読むと、最後の章に限っては島村が「美」を抽出できないでいることに気付きます。
どことなく感じていた最後の章に関する違和感はそこにあって、周囲の些細なことからも美や哀愁を掬いだしていた島村が、縮の町を訪れても何も感じられずに温泉場に戻ってくるというのは、島村(美の抽出)の限界と虚無感が現れているように思うのです。
これまで島村の目を通してこの作品を見てきた私にとって、この展開は、作者から唐突に突き放されたようでもあり、戸惑いさえありました。
そして、(先の展開を知っているからでもあるのですが)作品が終結へと向かっているという現実が否応なしに迫ってきて、妙に焦燥感を覚えるのですね。もう5回以上は読んでいると思うのですが、ここでこんなにもドキドキしたのは初めてでした。

温泉場に戻ってきた島村はすぐに駒子と会い、無意味な会話を交わし、それを著者は「甘い遊びだった。」と切り捨てます(と私は読みました)。これは、その会話だけを切り捨てたのではなく、これまでの島村と駒子との戯れに終止符を打ったとも受け取ることができ、島村と駒子の物語は、ここで終結を迎えます。
そして、村の繭倉で火災が起き、『雪国』という作品そのものの終結へと向かいます。

ここで出てくるのが、夜空に輝く天の河です。
これまで島村は、駒子や葉子をはじめとした「人」、舞台となる温泉場の山に咲く花や木などの「植物」、そして蛾や蜂など「昆虫」といった、命あるものを鋭く見つめ、その生と死の間で埋もれていく美を抽出してきました。
ところが、天体となると話が別で。同じ地上で生きるものの生と死を見つめることはできても、夜空に浮かぶ星の生死などは人間が感覚でわかるようなものではなくて、島村もただ天の河の美しさには圧倒されるばかり。
繭倉の2階から落ちてくる葉子については変わらず独特な描写で書かれていますが、天の河に対しては、島村の意志を介すことはできません。読者も、島村の目を通してではなく、自分が知っている(写真や映像でも)天の河の美しさが、脳裏には浮かんでいるのではないかと思うのです。
最後は、

「さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。」

この時、島村の死まで見えてしまいました。
少なくとも、この「雪国」で彼はもう生きることはできなくなりましたし、そのことが今後彼の人生にどのような影響を及ぼすのだろうと。これまでは、島村はこの後もぼんやりと生きていくのだろうと思っていましたが、そうではないのかもしれない、と。
(まあ、「代わり」を見つけるかもしれませんが、別の場所で。。)

このブログに書き残している過去の感想を読むと、今回の読後感は2010年のそれに近いものがあるかもしれません。
あの時は川端さんの描き出す美にうろたえるばかりでしたが、今回は少し違う視点で、その「美」を捉えることができたかな(と思いたい)。

・・・というわけで、次は今年中か来年になるかはわかりませんが、また読みたいと思います。
この『雪国』は、これからも読み続けていきたいです。

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