風景の中に溶け込む~空間と音の話~

「雨の日に傘を差し、耳にiPodのイヤホンをして自転車に乗る」なんてことは恐くて私にはできないけれど、弟はどうも平気らしい。
出かける前に「危ないよ」と声を掛けたら、「大丈夫。慣れてるから」と言われてしまった。
慣れているか否かの問題ではないけれど、いちいちそれを説明してまでやめさせようとは思わなかった。

私も学生時代は耳にイヤホンをし(iPodではなく携帯電話だったけれど)、自転車を乗り回していた。
朝早くバイトに行く時などは特に、気分を高揚させるためにノリの良い曲(今もまだ人気があるのだろうか、Green Dayの『Holiday』が当時のお気に入りだった。邦楽ではスキマスイッチの『全力少年』といったところ)を聴きながらそれを口ずさみ、朝の爽やかな風を切って走っていた。眩しい朝日を背に受けて。

しかし、それができたのもバイトが朝の7時からだったおかげ。通勤時間に人通りは少なく、周りを気にする必要があまりなかったからだ。
バイトが終わって10時過ぎに店を出る時には、もちろん音楽は聴かずに自転車を走らせた。住宅街の昼間はそれなりに人通りはあるし、私が毎日通っていた神戸と京都を結ぶ国道171号線は、それはそれは車の通りも多いのだ。

そんなわけで、外で音楽を聴く時はそれなりに気を使うようにしていた。周囲に対しても、といよりは、自分自身のために、だったけれど。
多くの人が行き交う場所で、いや、誰もいない場所でも、音楽で雑音をシャットアウトし、周囲の気配を消してしまうことは、少し恐い。後ろから誰が、何が近付いてくるかわからないから。車にもひったくりにも気付かず被害に遭ってしまうかもしれないのだ。そういう恐怖感を持ち得ない人が多いことに、ちょっとびっくりする。
都会に来てなおさら、外を歩きながら音楽を聴く気なんてすっかり消え失せてしまった。

ただ、理由はその恐怖感だけではない。
もう一つの理由は、もったいないからだ。せっかく外を歩いているのに、風の音に耳を傾けないなんて、もったいない。
車や人混みや空を行き交う飛行機の騒音といった自分が住む街の喧噪も、うんざりする時はあるけれど、だからといってその音を排除しようとは思わない。

音楽を携帯する理由は人それぞれだろうけど、どんな理由であれ、イヤホンをつけた瞬間に周囲と自分の間に壁を作っていることは確かだと思う。
図書館での勉強や仕事など、自分の世界に入り込む(集中する)ことが必要とされる場合は仕方ないとして、そうでもない場合に自ら周囲をシャットアウトすることはできない。
一人の時間を過ごすために出かけた散歩でも、カフェで一息する時でも、一人でありながら(ここでいう「一人」というのは「連れ合いがいない」ということだ)、他者の存在を意識せざるを得ない空間というのが、私は好きだ。

「誰も知らない私」もまた、私の一つの顔だ。
すれ違う人々は私のことなど知らない。すれ違う一瞬に目が合ったとしても、次の瞬間にはお互いに顔も忘れている。
私達は道を歩いている時は、ただの「人」だ。どんな人も、自身以外の人にとっては「人」でしかない。名前など必要がなく、ただの歩行人。すれ違いは「出会い」とも言えるけど、すれ違っただけでそこに特別な意味を持たせようという人はそうはいない。
街中で一人で歩く私は、そこにいる誰にとっても、一瞬だけ意識されてすぐに忘れ去られてしまう人で、そこに長期間居続ける何かの建物よりも、存在感のない存在だ。
しかし、「人」という大雑把な括りで認識されてはいる。その風景の中に、個人としてではなく「人」という一部となって存在している。

自分であることを忘れ、街の一部となれるその時間と空間が、私は好きなのだ。

すれ違う瞬間にだけ聞こえる会話、車の音、風に揺れて擦れ合うイチョウの葉たち。
暗くなり始めた空の下、行き交う人々の多くは仕事帰りか学校帰りだろうけれど、そうではない人もきっといる。それでも「帰宅途中の人々」とニュースでは言われてしまうその集団の一部となって、皆と同じほうへ足を向ける。

レジで交わされるやりとりが、かすれながらも聞こえてくる。店の一番奥の席に座る私は、そっと耳を傾ける。
コーヒーをいれる音が店内に響く。カップを受け取った誰かの足音が近付いてくる。
誰でもない誰かとなって、席を選ぶその人の視界に入るけれど、彼(彼女)は私に背中を向けた瞬間、私のことは忘れるだろう。「ああ、あの席は取られてる」なんて思いながら。

何も考えずに、そこにある空間(風景)の中に身をゆだねる。
それは何の意味も持たないけれど、「私はこの中にいる」という奇妙な一体感を私にもたらしてくれる。そしてそれは、心地良いのだ。

この快感を覚えて、私は音楽で周囲の音を閉ざしてしまうことをやめた。

音と空間は同時に存在する。耳と目でそれぞれ違う世界に身を置くことに、今の私はきっとストレスさえ感じるだろう。

シアトル
私以外のお客はいない静かな店内。
手前の紙コップに焦点を合わせるつもりが失敗したという写真の出来はともかく、初めて経験した「一人だけの客」は妙に寂しかった。
窓際の席でサラリーマンが書類を広げるのが視界に入った時、ちょっと嬉しかった。
「空間を共有する誰か」を認識することによって、「奇妙な一体感」は成り立つようだ。

……ちなみに、シアトルズベストコーヒーで飲んだのは「スチームミルク」。バニラシロップを入れてもらったが、とても美味しかった。次は別のシロップに挑戦してみよう。

2 comments to “風景の中に溶け込む~空間と音の話~”
  1. 今はほとんどの人が耳にイヤホン付けて歩いてますよね。私は初代walkmanからの愛用者ですが、当時は変わり者扱いされたものです。今はi-Podなどのメモリーオーディオやケータイで気軽に音楽が楽しめる様になりました。しかし、カイリさんと同感、皆さん外界との関係を敢えて遮断している様に思えます。カイリさんも音の世界を楽しめるんですね。都会の騒音と一言で言ってしまいがちですがその騒音をよく聞き分けると鳥の囀りや町独特の音などが聞こえてきます。お気に入りの音楽を聴くことに異論はありませんが自然の音も捨たものではありませんよね。ちなみに私が外出時にイヤホンで音楽を聴くのは地下鉄線内くらいです。

  2. >miyupapaさん
    イヤホンつけて出歩く光景は当たり前になりましたね。若い人に限らず。
    私は注意力が低下しそうで恐いんですけど、そう感じない人も多いようで。忙しくて歩く時間さえも何か自分のために使わないと惜しい、とかそういうのもあるのでしょうか……。
    音の世界。私、音やリズムが好きなんです。
    私の好きな言葉の世界も音とリズムです。学生の時に言語や音声学みたいなものをちょっとかじっただけですが、言葉の音やリズムを気にするようになりました。声に出さずに読む時でも、心の中で音やリズムを刻みます。
    私達は音やリズムと無縁に生きていくことはできないんですよね。
    好きな音楽を繰り返し聴くのもよいですが、外にいる時は、常に変化し続ける自然の音に耳を傾けているほうが刺激的で楽しいですね(^^)

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