モノクロームの顔

先週か先々週か忘れてしまったが、『報道ステーション』でやっていたカメラマン・荒木経惟さんの特集を見た。
「日本人ノ顔プロジェクト」という、47各都道府県に住む人々の顔を撮影するという荒木さんの試みに焦点をあてたものだった(プロジェクトの公式サイト)。
すでにいくつかの府県では撮影を済ませてあり、写真集も販売されているようだ(鹿児島福岡大阪は発売済みのよう)。先日の特集では、今年7月に行われた広島の撮影会を取材していた。

この特集を見ながら思ったのは、「なぜモノクロ写真なのか」ということだ。
荒木さんは人々の顔をモノクロで撮影していた。
荒木さんの写真を見ながら、以前から思っていた疑問がさらに強くなった。
なぜモノクロは、これほどまで人の顔を魅力的に写すことができるのだろうか。

荒木さんは「顔は究極のヌードだ」と仰っている。
言われてみればそうだ。体は服でどのようにでも隠せるが、顔はなかなかそうはいかない。
さらに、顔にはその人の生き様が表れる。
シワ、瞳、唇の歪み。
そこにはこれまでの時間が刻まれ、これからの時間が輝きを放っている。その時の体調や心模様も現れる。
顔は、その人の過去も現在も、未来さえも見せてくれるのだ。荒木さんが写真に収めたいのは、まさにそれだという。

では、なぜモノクロなのだろう。
私が思ったのは、写真にとって色は時に「服」になるのではないかということだ。
私が撮る写真は風景ばかりだ。それは自然が生み出す色彩に魅せられているからだ。色に惹かれて、風景写真ばかり、カラーで撮影している。
私が写真に収める風景はまさに「色」が目的なのだ。しかし色ではなく、そこに存在する「別の何か」を写すことが目的であったり本質であったりすると、色はないほうがいいのかもしれない。

荒木さんが人々の顔をモノクロで写す本当の理由はわからない(実は荒木さんのことは名前以外はよく知らない)。
顔の物理的な美しさではなく、その人自身に踏み込もうとすれば、色は邪魔なものとなってしまうのではないか。
そう素人なりに考えてみたが、はたして合っているかどうか……。

被写体となった人が作り出す光、そして背負う影。
深く刻まれたシワ、真っ黒な瞳の奥で輝く光。
笑顔も仏頂面も、その表情の下に全く正反対の顔が隠れているように見える。
白と黒で表されたこの世界が、カラーよりも人生の複雑さを繊細に表現しているように見えるのはなぜだろう。
モノクロは私達の肉眼では捉えられない世界でもある。それゆえに、見えないものが見える、ということがあるのだろうか。

モノクロで撮られた人々の顔を見ていると、普段いかに他人(あるいは自分)の顔や人生に無頓着に生きているかということを痛感する。
服やアクセサリー、化粧だけでなく、色そのものによって隠されたその人の本質を、毎日接しながら少しも見ようとしていないのだ。
身近な人の顔をモノクロで撮ってみたら、今まで知らなかった顔に驚くかもしれない。
その「知らない顔」を引き出すには、撮影時の荒木さんの語りかけのように、テクニックが必要となるだろう。しかし、ただモノクロで撮ってみるだけでも、「知らない顔」の一部くらいは見ることができるかもしれない。

風景写真でも、モノクロで見る者を惹きつける作品はいくらでもある。それらが映し出しているのは当然、色が描き出す美しさではなく、例えばその街の息遣いだったり、色だけでは感じることのできないものだ。
色ばかり見ている私がモノクロで撮影する気になれないのは、そういった街の息遣いといったものなどを写真の中に収める意識も能力にも欠けているからだろう。

私は色に囚われてすぎているようだ。色の向こうに隠れた物事の本質を見ようとすれば、写真を撮る時の心構えも変わり、より写真の楽しさを感じることができるようになるかもしれない。
目の前にある被写体を写すだけが写真ではないのだと、いろいろ考えさせられた。
プレゼンターを務めた松岡修造さんの最後の写真まで、十分に楽しめる特集だった。

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