川端康成『雪国』(2010)

なんと言えばいいのか。

感想を言葉にすることさえ許さない圧倒的な世界の前に、ただひれ伏すのみ。

といった心境です。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

有名な出だしで始まるこの物語は、物語のようでそうでないようにも感じられ、美しい何かがそこに存在していた、それを見ただけだったようにも思います。
一言言えるのは、川端康成の世界に屈さざるをえなかった、ということ。

目の前に展開される“美”は、触れようと近づいてもするりと逃げていきます。
むしろ、それは透明の存在で、決して触れることなどできないと言ったほうがいいかもしれません。
そうした追いかけっこのようなものが読んでいる間延々と続き、結局何にも触れることのできないままぷっつりと、“美”は消えてしまいます。
後にはどうしようもない虚しさと喪失感が残るだけ。

雪国で繰り広げられる主人公・島村と芸者・駒子の、恋愛のようでそうでない馴れ合い。
二十歳そこらの駒子の抑えきれない衝動にいくらかの共感を抱きながら、決して彼女のような存在にはなれないという拒絶を突きつけられ、妻子を残していそいそと愛人へ会いに雪国へと足を運ぶ島村に、なぜか自分を重ねてしまう。
読者は島村の目(作者の目と言ってもいいかもしれない)を通して、駒子や葉子、雪国に佇む生の美を見ることはできますが、決して彼女たちのように美しくはなれません。島村と同じように、自分の生にただ虚しさを覚えるだけなんです。圧倒的な“生”と“美”の前に、ただ自分の醜さや汚れを感じずにはいられない。
そうして、読後に残るのは果てしない虚無感なんです。

雪国で営みを続けるすべての“生”の前には、男女の愛だの何だのと言った言葉でこの作品を語ることがとても愚かにさえ思われます。
読者に許されているのは、美しい哀しみの中につかの間漂うことだけ、と言ってもいいかもしれない。
そのつかの間の中で、いったいどうしてこの作者はこれほどまでに鋭い感性を持ち得て、あらゆる生の中の美しさを見つけることができたのかと、嫉妬せずにはいられません。
そして凄かったのは、作品の向こうにあの大きな瞳でじっとこちらを見つめる作者の気配を感じずにはいられなかったことです。「作者の顔はできるだけ消して読む」というのが私の読書スタイルですが、それができなかった。

川端さんの作品は何かを感じることは容易なのに、それを言葉にすることができません。まさに感覚の世界を感覚でもって受け取るしか許されないんです。
その力をまざまざと見せつけられました。「完敗」という感じです。。

しかし、以前は何も掴むことのできなかったこの作品から、虚無感であろうが敗北感であろうが掴むことができたのは、私にとってこの上ない喜びでした。
この感銘を言葉にできないのはとても悔しいのですが、その悔しさを味わえることさえもが喜びなんです。

そして改めて、私にとって川端康成という作家は特別だと感じています。彼の作品と出会えて本当によかった。
川端さんは私が見たい世界を見せてくれます。それも言葉という媒体でもって。
ああ、凄い。凄いお方です。

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