かっこいい大人たちの存在~『鋼の錬金術師』が終わって

主人公の周りには、いつもかっこいい大人たちがいた。

先月の話になるけど、とうとう大人気漫画『鋼の錬金術師』が「月刊少年ガンガン」本誌での連載終了を迎えた。
私は単行本派なので、まだ途中までしか読んでいないけれど、本誌終了後にエンディングを迎えたアニメのほうは見ていた。
物語はきれいに終えた印象を受ける。

幼き日に最愛の母親、トリシャ・エルリックを亡くした兄・エドワードと弟・アルフォンスのエルリック兄弟は、母親を生き返らせようと、錬金術における最大の禁忌、人体錬成を行う。しかし錬成は失敗し、エドワードは左脚を、アルフォンスは自らの身体全てを失ってしまう。エドワードは自身の右腕を代価として、アルフォンスの魂を鎧に定着させることに辛うじて成功したが、自分達の愚かさに気づく。その後エドワードは自ら失った右腕と左脚に機械鎧(オートメイル)を装着し、仮の手足を手に入れる。
12歳となったエドワードは、国家錬金術師となり二つ名「鋼」を授けられ、アルフォンスと共に元の体に戻る為、絶大な力を持つ賢者の石を探す旅に出る。しかし、旅先には数々の試練がエルリック兄弟を待っていた。

ストーリーはこんな感じ(Wikipediaより抜粋)。
単行本を衝動買いしてしまったのは、昨年のことだ。評判がいいのは何年も前から知っていた。実際に読んでみると、とても面白かった。あっと言う間に発刊済みのものは全部揃えた。
漫画を買うのは実に6年ぶりだったから、本当に久し振りにハマった漫画だ。

主人公である兄弟、兄・エドワードと弟・アルフォンス。
日本の学年に当てはめれば中学生である彼らの旅は、とても苦しく、激しく、重いものだったが、最終的に彼らは目的を達成した。しかしまた、彼らは旅立った。
驚くほどの過酷な旅を経て一歩大人に近付いた彼らの、本当の大人への旅。その始まりとともに、物語は終わった。

改めてぼんやりとストーリーを振り返ってみて、この漫画のキーポイントが「大人」であることに気付かされた。
それは兄弟の成長を指すだけではない。その成長を見守る周囲の大人たちも含む。
大人たちの背中は、兄弟にとって道標でもあった。

少年漫画に「かっこいい大人」は付き物だ。
もちろん、この漫画にもいる。
時に厳しく、時に優しく、彼らと人として対等に付き合う。その一方で、子どもとしての彼らを、大人の責任でもって見守る。

主人公のエドワードはひねくれ者で、礼儀知らずで、敬語の一つも使えず憎まれ口ばかり叩く、やっかいなガキだ。目上の人間にも容赦なく説教垂れる。
しかし、周囲の大人(彼らの味方)は、上から目線で無意味に彼らを叱りつけることはない。
本当に叱る時は、兄弟のことを心の底から心配してる時だ。

大人たちはあくまでも脇役だ。 主人公たちが輝くために存在する。
そして、主人公たちの人生の道標となるために、彼らを見守るために、そこにいる。
子どもにとって、そんな大人は最高にかっこよく見える(のではないか)。
もちろん、いつもかっこいいわけではない。情けないことを言ったり、残念なことをしたり、時に「大人の事情」で嘘をつく。
でも、最終的にはやっぱり「憧れの人」になる。

そんな大人が「少年漫画」には必要なんじゃないか。

……そう思うようになったのは、つい最近だ。

自分が子どもだった時よりずっと「かっこいい大人」の輪郭がはっきりと見えるのは、私が社会的に「大人」と言われてもしかたない年齢になったからだろう。
主人公が10代だと、大人と呼ばれるのは大抵20代以上の人物になる。
この漫画に登場する「かっこいい大人」の中にも、私と同年代であろう人物が何人かいる。
同年代の彼らを、私は(自分よりずっと)「大人」と感じながら読んでいた。
そこには、日頃の自分を省みる意味もある。しかし、「かっこいい大人」に対する純粋な憧れが一番の要因だろう。
それはたとえ、自分が周囲から「かっこいい大人」として見られる日が来ようとも、消え失せることのない憧れではないだろうか。

漫画の世界は子ども(読者)が夢を見る場所でもある。
その世界に、子どもが憧れる大人がいてほしいと強く思う。

『鋼の錬金術師』。
兄弟の成長を描いた物語は、巧みなストーリー展開で笑いと涙と思索がバランス良く散りばめられた、素晴らしい作品だった。
そして、主人公を見守る大人たちの姿がずっと胸に焼き付く、夢のある少年漫画だった。

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ちなみに、最新の26巻は8月12日発売。給料日の直後だ!!

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