川端康成『雪国』(2013)

冬だから・・・? 『雪国』がまた読みたくなって、再読。何回目だろう。


※  ※  ※

川端康成著『雪国』。一昨年、昨年、今年、と3年連続で読んでいるみたいです。もう年中行事にしようかな(笑)。
一昨年はこんな感想を書いていました。

感想を言葉にすることさえ許さない圧倒的な世界の前に、ただひれ伏すのみ。

とか書いていて、今読むとなんだか笑ってしまうのですが、あの時は、本当にただただ圧倒された、という感じでした。
昨年の夏ごろに再読して、その時は一昨年のような感動はなかったですね。今年はというと、駒子や島村の人間性にいろいろと思ってしまいました。
せっかくなので、感想を記録がてら書いてみます。
もし『雪国』を読むことが年中行事になれば、自分の感想の変遷を追うこともできるし。たぶん、なんとなく読んで終わるよりも、そのほうがいいような気がするので・・・。

一昨年読んだときはただ感動するばかりだった「雪国」の四季折々を描いた美しい描写も、今年は、廃れゆく未来が見える地方の侘しさを強く感じました。
いつか消えゆくものとわかっているからより美しさを感じるのでしょうか。ただ美しいだけ、ではないですよね。
繰り返し読めば、登場人物たちの未来がわかっているからか、一つ一つの場面が余計美しく、愛おしく見えてしまう部分があります。例えば、冒頭の「駅長さあん」という葉子の叫びなど。
そして、自然の描写でも、人々の営みがそこにあるからこその美しさが、ありますよね。夜の底に降り積もる雪も、銀色に揺れる萱の穂も。その人々の営みが失われつつある、また、失われてきたものがある。そのことが、美しさをより増しているように思います。
自然と、人々の営みと。この作品の主人公が「雪国」であるというのは、何度読んでも変わらないです。

そんな雪国で繰り広げられる駒子と島村の関係も、いずれは終わるものです。だから美しいとは、さずがに思わないですけど。
この2人の関係はやはり、遊びというか戯れというか。
お互いに相手を求めている、というのはわかるのですが、その理由はわかりません。本人たちもわかっていないようにも思えるし、だからいつでも切れる関係なのに、切れない。(切れないと言っても、3回しか会っていませんけど)
ラストの火事をきっかけに、2人の関係が終わったであろうことは想像できるのですが、そういった外因がなければもう少し関係は続いていたようにも思います。それでもいつか、終わってはいたでしょう。

私が今回一番気になったのは、駒子の生き方です。
彼女はまだ20歳くらいの若さであるのに、もう「行き詰っている」ように感じるんです。
宴会に呼ばれて酒を飲まされ泥酔した彼女が「島村さあん」と部屋に転がり込んでくる場面が何度かありますが、そのたびに胸が締め付けられました。
あれは、彼女の叫びですよね。救いを求める。
島村には「帰る」場所も現実もありますが、雪国に住む駒子にとってはまさにそこが現実で、苦しくてもつらくてもここで生きていくしかない。
彼女はこの土地から逃げたかったのだろうと思います。でも、この場所にしがみついて生きなければならない部分もあったのでしょう。うまく言えないですけど・・・。今置かれている状況に不満を覚えながらも、そこに甘えている部分も、あったのかなと。
そういった矛盾の中でもがく姿が、悲しかった。

この物語は、現代ではリアリティのある話ではないですが、島村の中途半端さとか、駒子の情緒不安定な姿とか、登場人物そのものには、現代を生きる自分に通じる部分を見つけられるんですよね。
島村の中途半端というのは、彼の仕事ですね。本物を見たことないのに、本物を語りたがるという。私はさすがにそれでお金をもらったりはしていませんが(笑)。

西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気ままな想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を観賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を観賞しているのだった。

程度の差はあれ、こういうことってあるんですよね。痛いところを突かれた、という感じです。。。

駒子は、同性だから、というのもあるのかな。あるだろうな。彼女の姿には、自分を重ねてしまうことが少なからずありました。泣いたり叫んだり怒ったり、情緒不安定なところとか。矛盾の中でもがく姿も。
実際にあんな風に泣いたり叫んだりするわけではないですけど。ああしたくなる時があるというか、あったというか。

本に限りませんが、やはり、経験を重ねるごとに感想というものは変わるものだなと、改めて思いました。それは、「再読」という経験も含めて。
自分にしろ他人にしろ、登場人物が誰かと重なったり、描かれる風景がかつて見たものに似ていたり。
時代や場所が違っても、作品の世界がファンタジーであっても、自分の知っているものがそこにあるだけで、作品に対する印象が随分変わるなあと。
まあ、当たり前といえば当たり前なんですが。当たり前のことをこうしてあえて書き出す必要もないんですが・・・。

何かを感じずにはいられないものがこの作品にはあるし、だからこうして何度も読み返し、感慨に耽ってしまう。
というより、耽りたいから読む、のかもしれません。

川端さんの作品と出会ったのは学生の頃で、当時は『掌の小説』が好きだったんです。『雪国』もその頃読んでいるはずで、その時は何にも感じなかったし、好きでもなかったです。こうして一番多く繰り返して読むことになるとは思わなかった。
今でははっきりと、「好きな作品」に挙げられます。まだまだ、深く語れるほどではないですけど。
来年の冬もまた読んでいるのではないかと・・・思います。

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