言葉を学ぶということ

学生の頃は外国語学部で某印欧語を学んでいました。
外国の映画を見たり、小説を読んだり(いずれも翻訳物)、ニュースを読んだり、今でも海外に対する興味は失っていません。しかし、四年間一つの言語を学習して、ほんの少し知識は得たものの全くモノになりませんでした。語学を使えるモノにする為に一番必要なものが、私には欠けています。

私がいた学科には仲が悪いことで有名な二人の教授がいました。二人の仲が悪かった原因とされていたのが、言語(言葉)に対する二人の考えの違い。一方は「言葉はコミュニケーションのツールでしかない」といい、もう一方は「言語はそれ自体が学問となり得る」と主張していました。
それぞれ自分の授業で相手の主張を皮肉るのを聞きながら、どっちも正しいんじゃないの、と素人ながらに思ったものでした。まあ、二人とも本気で相手を嫌っていたのではなく、半ばネタのようなものだったのかもしれませんが、真相はわかりません。

どちらにしても、どうしても避けられないことがあります。それは、その言語を母国語とする人達とのコミュニケーション。
読む、書く、聞く、話す。
前二つはテキスト相手に独学でどうにかできても、後者は「相手」が必要です。そしてそれは、その言語を日常生活で常に使用している人ほどいい。
言葉はまず、それを使う人がいて、その背景には多くの歴史や文化がある。辞書には載らない言い回しや言葉もたくさんある。それは積極的に母語者と関わって、またその地域に実際に行ったりしないと、遠い日本でテキストを読んだり見たりしているだけでは身に付きません。

私にはこの部分が決定的に欠けています。
学生の頃から薄々気付いていたし、最近になって独学で別の言語を勉強し始めて(只今頓挫中)、再びこの部分でつまづきました。
最初のうちはすごく楽しいんですよね、新しい言語を学ぶのって。文字を覚えて、発音を覚えて。学生時代に音声学をやって中途半端な知識はあるから、発音のあれこれも割とスムーズに理解できて、日本語にはない音を出すのが楽しくて。普段使わないような舌や唇の使い方とか、面白いんです。
次に単語や文法に入るわけですが、進めながら段々気付いてきます。「私、これなんの為にやってるんだろう。○○人(外国人)の友達作りたいわけでもないのに」って。そして急激に熱が冷めていく。
モノにしようと思ったら、その言語を話す誰かと知り合わなければならないし、知り合って、いろんなことについて話さなければならない。でも、私にはそれができない。したいと思えない。
”他人とコミュニケーションを取ること”
これを苦手にしている限り、私には新しい言語を習得することは無理だと思いました。

なぜそんな私が外国語学部を受験したかというと、高校生の頃はこれでも「海外で活躍できる人になりたい」という願望があったんです(笑)。米国の映画や音楽が好きで、英語の授業が好きで、ただそれだけの理由で。英語の成績が良かったのは、ペーパーテストで点数とれるやり方を知っていた、ただそれだけのことだったんですよね。それを勘違いしちゃって。
今思えば、「自分には向いていない」と気付くタイミングは高校時代にもあったんです。でもペーパーの点数に甘えて、ほいほいと外国語学部に行きました。
行ったところがまた自分のレベルには不釣り合いな場所で、ついて行くのもやっとの状態だったのですが、ペーパーテストで点数とれる方法は知ってたから(カンニングとかじゃないですよ、笑)、留年はせずに四年できっちり卒業できました。
でもそこで、いろんなことを諦めてしまった気がします。まだ諦める年齢でもなかったのに。それはただただ「甘え」だと思うし、諦めたというより、「逃げた」と言ったほうが正しいのだけど。
その後はいろいろあって、三十路にもなってまともな社会経験もできず、フリーターという身分に落ち着いてしまっています。

選んだ大学を間違えたとは思っていないし、大学四年間の生活が無駄だったとは思いません。学んだことも、モノにはできなかったけど、生活の中で小さく小さく役立っている部分もあります(趣味など)。
ただ、言語を習得する上で必要なコミュニケーション。これって、当たり前ですけど、外国語をやる云々関係なく、日々の生活において大切なんですよね。すっごく。仕事も、プライベートも。
私の場合、最低限のコミュニケーションならできますけど(と思っているけど)、そんな薄い薄い表面的な関係でさえ、続けることに苦痛を感じてしまいます。
何なんでしょうね、この感覚。
どうしてこんな自分になってしまったんだろうって、思います。
引っ込み思案になった辛いきっかけはありますけど、それを乗り越えるきっかけもまた、どこかにあったはず。そのきっかけを逃してしまったのは、私自身に責任があるのかなと思います。

「読み書きはテキストなどでもある程度できる」と書きましたが、読み書きもコミュニケーションの大事なツール。言葉そのものが、自分と他人とを繋ぐ、大切なものなんですよね。どんなに社会が変わろうとも、言葉が時代と共に変容しようとも、その事実だけは変わらない。

私はどこかで、言葉を舐めていたのかな。
最近語彙力不足を痛感することが、仕事でもプライベートでもよくあります。人とのコミュニケーションを疎かにしてきた、経験のなさが大きな原因の一つだと思っているのですが、それはつまり、どこかで言葉を舐めている部分があった、そいういうことなんじゃないかと。そんな気がしています。

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