「ファン」になれない

スポーツを見るのが好きで、特にオリンピックや世界選手権といった大きな大会になると、普段ほとんど見ない競技でもテレビの前で手に汗握る勝負に見入ってしまいます。
面白いことに、普段見ない競技の方が、勝負や競技の魅力を純粋に楽しむことができます。知識がない分、素直に解説の言葉も受け入れられるし、新たな発見があるので感動もより多く生まれます。
ところが、贔屓の選手やチームができるほどに見るようになると、そういった純粋な楽しみ方ができなくなってしまいます。贔屓選手の勝利を願うばかりに、ライバル選手の素晴らしいプレーに苛立ってしまったり、ミスを願ったり。半端な知識が邪魔をしたり。。

最近、そんなことでちょっとだけ悩んでいます。

※  ※  ※

つまらない悩みですよね(苦笑)。

ソチ五輪が近づいてきて、私の好きなフィギュアスケートもじわじわと盛り上がってきています。
4年前のバンクーバー五輪では、生中継で見たいがために有給を全部使い果たしたほどのめり込んで、見ていました。感想も熱心に全種目について書いていて、いま改めて読んでみて(ちょっと恥ずかしいんですが)、あの時のように各選手の演技に素直に感動することはもうできないかもなあ、と思っています。

最近は特に、自分の好みの滑りをする選手にしか目がいかなくて。
フィギュアスケートは現在、グランプリシリーズという6都市で開催される世界大会のシリーズが行われていて、一応各大会さっと見てはいるのですが、好みでない選手は全く見ていないです。国籍関わらず(日本人だから応援する!みたいなことができなくなった)。
その見ていない選手の中には、4年前にはその演技に感動して涙を流したという選手もいます。4年間で自分の気持ちがここまで変わるとは思っていなかったです。でも、一度「無理かなあ」と思うと、ダメなんですね。こればかりは。合わなくなってしまうと、見たくなくなってしまうんですよね。。

一人の選手やチームを応援し続けることは、彼ら・彼女らの成長していく姿を見続けるということでもあり、そこには大きな喜びも生じます。私自身もそういう経験はなくはないので、わかるのですけど、応援し続けることで味わえる喜びの前に、「続ける」ことに苦痛を感じてしまって、必ずどこかで離れます。そして(今回のように大きな大会の前になると)ふらっと戻ってくる、と…。
「応援し続ける」ことができないのは、不振の時などの辛さに耐えられない、というのもあります。選手がバッシングを受ける姿を見たくない、とか。。

ただ根性と耐性がないだけですな(苦笑)。

冒頭に書いた「贔屓ができると素直に楽しめない」というのも、「辛い時を乗り越えられない」ということなんでしょうね。ライバルのミスを願うとか、好プレーに焦るとか、そういった気持ちも。
熱心になってしまうと、私の場合どうしても、この「負」に陥ってしまうので。そしてこの「負」の気持ちがすごく嫌なんですね。もう自分が嫌な人間になっていくようで。
贔屓の選手を応援しつつ、周りの選手のプレーも楽しむ。そういった感じで、うまくバランスをとることができればいいのでしょうが、難しいです。

フィギュアの話ばかり書いてしまいましたが、こんな風に書くのも、今年一年とあるチーム(某プロ野球球団。先日記事を書いた楽天ではないです)を応援し続けて、すっかり疲れてしまったというのがあって。
楽天も気になる選手などできたので、来季から見ていこうとは思っていますが、ほどほどにしようかなと。のめり込んで、疲れて嫌になってしまっては元も子もないですから。。

そういうわけなので、私は「好き」という言葉は使っても、自ら「ファン」と名乗ることはできるだけ控えるようにしています。自分の中でのけじめのようなものです。
記事のタイトル、『「ファン」になれない』としましたが、『「ファン」になりたくない』のほうがふさわしいかもしれません。

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対象とのこういう距離の取り方は、私の場合、人間関係においてもあるような気がします。「深入り」するのが怖くて。臆病なんだなあ。。

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