「家に帰りたくない」

仕事が終わり、イルミネーションに彩られた街にしばしの別れを告げ、バスに乗る。
電車のほうが早くて安いけれど、オフィスを出た私の足は自然とバス停へと向かう。

帰途につく人々の小さな溜息に満ちたバスの車内が、好きだ。
仕事からもプライベートからも解放され、何者でもない、名もなき人間になれる、唯一の場所。

家の最寄りのバス停まで、30分ほど。乗客もまばらな車内で、私はただ座っているだけ。
短い安らぎのとき。揺られながら、このまま永遠に着かなければいいのに、と思うことさえある。
「家に帰りたくない」と。

「家」は、限りなく素に近い自分に戻れる場所だが、どうやっても消せない煩わしさから逃れられない場所でもある。
不満はないが、私は自分の部屋が苦手だ。部屋に染みついた私のすべてが、苦い記憶を呼び起こす。

「お父さんは家に帰りたくないんだ」

二十歳を少しばかり過ぎた頃だったと思う。父と二人で出かけたとき、そう言われたことがあった。
当時私たち家族はさまざまな問題を抱えていて、私にとっても「家」は戻りたい場所ではなかった。だから、「帰りたくない」という気持ちはわからなくもなかった。

ただ、私にはやはり戸惑いのほうが大きかった。
なぜ、それを私に言うのかと。
それは娘の私が受け止めなければならないものなのかと。

父の言葉に、私は何か答えたのか、あるいは黙っていたのか、思い出せない。

どこかの店のカウンターで、父は私の左側に座り、こちらを見ていた。そして言った、「家に帰りたくないんだ」と。
私の記憶に残っているのはそれだけだ。

父は覚えているだろうか、あの日のことを。
絶縁状態になって、10年以上経つ。
あのとき、父と私の関係はすでに私が望むかたちではなくなっていたのだと、いまになって気付く。

「家」の煩わしさから逃れたいとき、いまはそこにいない父の姿が現れては消える。
私は本当は何から逃れたいのか。
不安定な夜に、心を掻きむしる。

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