今年に入って、日記を書き始めた。
365日書き続けられたらいいな、という目標は2月13日に早くも頓挫してしまった。
2月半ばから日記帳を開く余裕もなくなり、頭の中に言葉が浮かばなくなってしまった。
いまは週に一回書けたらいい、という程度。
心が乱れているときは、わかりやすく字も乱れている。まるでダイイングメッセージのよう。後日読み返したときに、私は解読できるだろうか。
写真は2月初旬に舞鶴公園で撮ったものだ。
日が沈む前、夕方の5時半ごろ、ウメの様子を見に訪れた。
西の空を背景に、咲き始めたばかりのウメをいくつか撮った。東には満月間近の月が昇っていた。
日の出と日の入り、さまざまな色が重なり合う、いわゆる「マジックアワー」と呼ばれるこの時間帯の空が好きだ。グラデーションの中に身を投げ、溶けてしまいたくなる。
満開のウメを見に行くのを楽しみにしていたが、結局行けずじまいだった。
歩き回る元気がなかったというのが大きな理由だが、もうひとつ、2年ほど前に買ったカメラがまだ手に馴染んでいないというのがある。
以前使用していたカメラよりも高性能になった分、機体は重くなった。たまに撮りに行くと、その重さに手首が驚く。カメラの重さが心の重石にもなっている。
高性能のカメラも、使う側にその性能を活かす能力、気力、体力がないと、ただ重いだけだ。
いまは少しばかり、買ったことを後悔している。
写真は撮りに行けていないが、映画館には行っている。2時間座っていられるだけの体力はまだ残っている。
お気に入りのスクリーンがひとつ増えて、その劇場の椅子に座る楽しみが、映画館に足を運ぶモチベーションとなっている。
ここ数年、私は「自分の物語」を求めて映画を観ている。私の思いを代弁してくれる人を、私の代わりに叫んでくれる人を、泣いてくれる人を、スクリーンの中に探している。
「そういう映画」だとわかっていて観に行くこともあれば、何も知らずに行ったら偶然私のための映画だった、ということもある。
中学生の頃、テレビの地上波ロードショーであるハリウッドスターに一目惚れして以来、(熱量に波はあったものの)映画を見続けて数十年経つが、いまほど映画の中に救いを求めたことはなかったかもしれない。
昨年のある時期から、恋をしている。
何年振りだろう。もう死ぬまでこういう気持ちを抱くことはないと思っていた。
思いもよらない場所から舞い降りてきた。自分でも驚く。
叶わない恋に焦がれるのは高校生以来。もう二度と会うことのない人をずっと思い続けていたあの日々を思い出す。あのときの恋は、次の恋が来るまで終わらなかった。
私は薄情な人間なので、かつて付き合っていたのに顔も名前も思い出せない人がいる。彼に言われたことやされたことは思い出せるのに、彼の首から上のイメージはいつもぼやけている。
その一方で、叶わなかった恋とその相手のことは覚えているのだから。叶わなかったからこそ、忘れられないのかもしれない。
いま思い焦がれている人も、そうなるのだろうか。もしこの先新しい恋に巡り合わなければ、死ぬまで彼を思い続けるのだろうか。
彼はまさか、私が思いを寄せているなんて思いもしないだろう。
誰も知らないこの恋が終わるのを、私はただ静かに待っている。
マジックアワーの空のように、いまはグラデーション。燃えるような赤い空が、夜の中に消えていくのを待っている。