死ぬまで一緒

感情がコントロールできなかったり、「どうして私はこんなに○○なんだろう」と自分の性格が嫌になったり、自分自身との付き合いに疲れることは誰しもあるだろうと思います。

生まれてから死ぬまで、ずっとそばにいる人。

それは他の誰でもなく、自分自身。他の誰との付き合いよりも難しくて、人生ってそもそも自分自身との付き合い、そして闘いなんだ、と思ったりもします。

自分の感情をコントロールできずに理由なく泣いてばかりいたり、「どうしてあの時あんなことしたんだろう」と自分の言動を後悔したり、「どうしてもっと強くなれないんだ」「どうしてもっと社交的になれないんだ」と自分の性格に嫌気がさしたり…。
そんなことがしょっちゅうありますが、以前はそんな自分を「変わらなきゃいけない」と責めていたのが、「私はこれでいいんだ」と思えるようになったことは、自分の中で“進歩”だと思っています。

人間というのは他者と比較せずにはいられないもので、自分を周りと比べて、それも数字などで測れる能力ではなく、性格や気質といった本来なら優劣をつけるべきでないものを比較して、人付き合いの下手な自分を責めたり、友人が少ないことを嘆いたり(多いことを望んでいるわけでもないのに)、自分の人生が他人よりつまらないものに思えて焦燥感を覚えたり。

私は“進歩”したことで、そういった比較で悩むことが減ったように思います(まったくなくなったというわけではないです)。
もちろん、変えるべきところはあるでしょう。しかし、皆が良いとするところ、当然とするところ、理想とするところに自分も届かなければならない、そんな必要はないのかな、って。

理想を高く持つ、ということは良いように思えますが、それがかえって不満を増やすことにもなるようです。
例えば能力向上といった、自身の努力で辿り着ける理想であれば持つことに超したことはないと思いますが、それこそ性格や与えられた環境、そして過去といった、努力でも変えようのないことに理想を追い求めることは、ただ不満が募るばかりだと。
「諦め」というと悪いことのように聞こえますが、諦めが大事なこともあるんですよね。
最終的にプラスの方向に持っていけばいいわけで、「諦め」は必ずしもマイナスではない。「妥協」とも言うわけですが。

自分自身との付き合いにおいて、その「妥協」はとても重要だと思うんです。

より楽しく生きていこうと思えば、自分自身に不満ばかり抱いてはいけない。
不満を唱えるなら、それを解消する努力をしなければならない。努力ができないのなら、努力で解消できないのなら、不満を言わずに今の自分に満足するしかない。

と思うんです。
マイナスの考え方のように思われるかもしれませんが(実際そうかもしれません)、今の自分に満足する、自分の欠点(と思うところ)を受け入れる、それも大切なことではないかな、と。
自分とは死ぬまで付き合っていかなければいけないのだから。

私は、自分で欠点と思っているところも「しょうがない、これが私なんだから」と思えるようになりました。
不満に思うと、やっぱりその原因を考えてしまうわけで、原因をどこに求めるかと言えば、自分自身ではなく家族といった周囲になってしまうんですよね(「私がこんな風になったのは家庭環境のせいだ!親の不仲のせいだ!」みたいに)。
そうすると今度は周囲への不満が起こって、不満の連鎖連鎖…満足した生活を送ることができなくなるんです。他人に不満をぶつける自分が好きになれるはずもなく。

自分の欠点を認められるようになれば、他人の欠点にも自ずと寛容になれるように思います。そうすれば不満はだんだん減っていき、イライラすることも減るんです。

なんか説教臭くなってしまいましたが、今の私の考え方、生き方の記録を残しておこうと思って書きました。まだ浮上しない心を落ち着ける意味も込めて。
頭の中でごちゃごちゃしているものを文章に起こすことで、すっきり整理もできますしね。

さてさて、今おやつの時間の15時なんですが、頭も少しすっきりしたことだし出かけようかな、と思います。
母に買い物を頼まれているのですが、ちょっと散歩しに遠出もしてみたいなあ。
とりあえず、パソコンはシャットダウンし、お化粧開始します!

2 comments to “死ぬまで一緒”
  1. 必ずしも正解がある話ではなさそうですが、冒頭部分の「一生、付き合う人間、それは自分である」という概念ですね。
    お茶大哲学教授の土屋賢二さんの本を読んでいて「《主体》としての私」を考えさせられました。
    「私の腕」と呼んだときの「私の腕」とは私自身に含まれるだろうか?
    「私の心」と呼んだときの「私の心」とは私自身と同一ではないのか?
    所有しているものを含めて「私」という主体を形成しているようなんですね。
    そんな風に考えると中高年の方が成人病を患って、医者に「この病気の完治や根治は難しいから、上手に病気と付き合っていきましょう」なんて云うようですが、冒頭の《どうして私はこんなに××なんだろう》にも応用できそうですよね。
    私の場合は××には劣等感を想定しました。で、劣等感というのは克服できればそれに越した事はないんですが、それは病気が根治が難しいのと似ていて、現実的には難しいですよね。まして現代社会には相手が実在しています。どんなに歌を上手になりたいと努力しても、ライバルが存在する以上、努力は実るとは限らず、結局は劣等感から開放されなず、ましてや自分の資質に嫌悪を募らせてしまうものかも。柔軟に発想しないと、自分で自分をガンジガラメにしかねませんよね。
    自分を呪ったり、環境を恨んでみるのも人間ですが、基本的には前向きである事の方が大切なんですよね。誰を恨むでもなく、勿論、自分を責めすぎず、次の対処方法に挑む事が本質なのではないでしょうか。
    「私の考え」というのは所有の話だから厳密には私の所有している考えだし、私の肉体も私の所有している肉体なんだろうなぁ…と。そうすると生きる為に生まれてきたという事が、既に前向きなものを示唆していると理解できてくるといいますか…。
    ああ、難解だ。哲学者の云う事っては、ホントにもぉ!

  2. >メロンぱんちさん
    仰るように、可能な限り前向きであるほうがいいですよね。
    負の方向にばかり考えていると、うまくいくこともうまくいかなかったりすると思うんです。
    何より、不満を溜め込んだりイライラしたりするのって、疲れるんですよね。私はそれに疲れて、諦めというか妥協を選んだというのもあります。
    それまで必要以上にイライラしていたのかもしれませんね(汗)。
    「《主体》としての私」、うーん難しいですね!
    哲学というと、学生の時に履修した哲学の授業を思い出します。ギリシャ哲学でソクラテスや誰それの考えをひたすら聴く講義でしたが、何が何やらさっぱりでした。
    というわけで、「主体としての私」もさっぱり!?

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