文は人なり

ネットという相手の顔が(多くの場合)見えない世界では、文章でその人の人となりを判断することが多いと思います。
特に個人のブログなどはわりと皆さん自分をさらけ出しがちなので、判断しやすいように思います。…というか判断しています(もちろん私基準による)。
私はブログではない普通のサイトは、どこのサイトさんでもまず、コンテンツより先に日記を覗いてしまいます。そしてそこに書かれているのが私の苦手とするスタイルの文章だと、もう他は見ずに去ってしまうんです。

ある意味「見た目で判断している」わけで、申し訳なく思ったりもします。
しかし、こんなにもサイトやブログが氾濫した中で、サーフィンでいいものに出会おうと思ったら、自分なりの判断基準を決めてなきゃやってらんない!という考えもあって、ブラウザバックばかりやっているわけです。

…うーん、長い前置き。

そんな中、久しぶりに頷いてしまう良い文章に出会ったんです。
日々の出来事から思うことを書かれたコラムなのですが、文章の構成(起承転結)のうまさに感嘆。
書かれているのは大阪の方なんですが、笑いの取り方やオチの付け方などがお上手で、やはり大阪人は違うなと思いました。
私が大阪びいきなせいもあるかもしれませんが、惹かれる文章は大阪の方が書かれていたりすることが意外と多いです。
大阪の方は話すだけでなく、書いても上手なんだとつくづく思いました(当然ですが、“大阪弁だから”良く感じるのではありません。話の展開のさせ方が抜群に巧いのです)。

…と、これは余談。

その方の文章を読みながら、ふと思ったんです。
私は、私の書く文章からどのような人間と判断されているのかな、と。

「人となり」と書きましたが、日々をつづるものだからこそ、その人の普段の態度も垣間見ることができるんですよね。
気の使い方などから、その人はどのくらいの年齢なのかといったこともおおよそ見当がつきます。
たまに「え、まだそんなに若いの?」と、こちらを驚かせてくれるような、落ち着いた気持ちのいい文章を書く10代に出会うこともありますが、そんな時はそのギャップに逆に嬉しくなったりもします。
ただ、当然のことながらその逆もあってですね…。

私は今年でもう27になるのですが、そんな私が書く文章は果たして年相応なものなのだろうか、と思ったんです。
きちんと就職もせずフラフラした身ですから、その分、他の同世代の人たちと比べたら未熟な部分もあって、それが文章に表れているかも…なんて。
社会に出て初めて身に付くような知識や常識はもうどうしようもないというか、カバーしようがないので、それ以外の面…人間性とか…。
普段から外見など年相応に見られることがあまりなくて(若く見られてしまう)、もどかしく感じているので、文章のことまで気になってしまったんですよね。

私が生きてきた27年は、私の文章にきちんと表れているのか。
もちろんすべて表れる必要はないのですが、27年の重み(私にとっては重いです)がこれっぽっちも見えないとしたら、やっぱり寂しいです。
私は「何も知らない」人間じゃないんだー!って、叫びたくなる時がたまにあって。
…なんか「もうコドモじゃないもん!」と駄々こねる子供のようですね(苦笑)。
やはりきちんとした身分で社会に出ていない以上、どうしようもないかな。

…タイトルの『文(ぶん)は人なり』ですが、意味は読んで字のごとく、

「文章を見れば書き手の人となりがわかる」

です。フランスの博物学者ビュフォンの言葉だそう(Yahoo!辞書・大辞泉より)。

“言葉”じゃないんですよね。“文章”なんです。
もちろん、“言葉”を使った似たような意味を持つ名言もあります。言葉からも人となりはわかりますし。ただ、文章とは微妙に違いますよね。私は文章にこだわりたかった。
瞬間的に吐き出される言葉と違って、文章は考え抜いて表されるもの。
人を騙すために書かれた文章やマニュアル化されたものはさておき、またお金を稼ぐために書かれた文章もちょっと脇に置き、私たちのようなごく普通の人間が文章を書くとき、自ずと内面が表れてしまうものだと思うんです。

文章を読んで、「この人はどんな人なのかな」と想像したくなってしまう。わくわくしてしまう。
そんな時がたま~にあります。私もそんな文章を書けるような人間になりたいな、と思う今日この頃です。

※ちなみに、このビュフォンの言葉は英語では「The Style is the man himself.」と訳されています(もともとは仏語)。これを訳せば、「文体は人そのものである」といったところでしょうか。
“文”より“文体”のほうが理解しやすいようにも思いますが…。
彼は博物学者ですが文章に対してはこだわりがあり、またとても良い文章を書かれた人のようです。
理系の学者で文章が巧みと言うと、物理学者の寺田寅彦を思い出します。かつて知人より彼の随筆集を頂き、読んだことがあります。理系の匂いがしながらも情緒的な文章で、良かったです。

2 comments to “文は人なり”
  1. 現在は新鮮さがなくなったかも知れませんがブレイクする直前の大槻ケンヂさんのサブカル系の文章などは上手だなぁと感じましたし、さだまさしさんが新聞の夕刊に持っていたコラムにも同じ事を感じました。いずれもパーソナリティの味が、素直に文章に表われていたのだと思います。
    それと、基本的な構成などが明らかに上手な方っていらっしゃって、こちらのブログも相当、構成などは整えてらっしゃいますよね。あまみっくさんは謙遜なさって割と多く「まとまらない文章になってしまいましたが…」と綴られていますが実は内容のあるものを読み易く整理されているなぁと感じます。相手に読ませるのって難しいんじゃないかって感じます。
    文は人なりを表わす?!
    なんとなく時代は思慮深さや情緒的な感覚よりも、もっと判り易いものを求めるようになってきたような気がします。判りやすさの反面、短絡的になってしまうし、体感的な喜怒哀楽を感じさせる事が求められているといいますか…

  2. >メロンぱんちさん
    大槻さんもさださんも文章は読んだことないのですが、さださんは歌詞から言葉の使い方の巧さがわかりますよね(といってもそんなに知っているわけではないのですが)。
    「短絡的」「体感的な喜怒哀楽」を求める時代…仰るとおりかもしれません。
    響きのいい言葉とか、差し障りのない言葉(またはその逆の乱暴な言葉)が氾濫しているように思います(「文は時代なり」とも言えるかも…?)
    人の心ってもっと奥深いもので、簡単な単語や短い言葉で明確に表せるものではなくて、むしろ言葉では言い表せないことのほうがずっと多いように思うんです。それを文章だったり、いくつもの言葉を繋ぐことで、ほんの少しだけれど外に向けて発するというか。
    小説や随筆などは、自分の主張したいことはあってもそれは抑え、あくまでもある事象を提示し、読者がそれを自由に受け取り自由に考えるもの、だと思っています。
    私はそういう文章が好きなので、文章を書くときはできるだけ読まれる方が自由に解釈できるようなものを、というのは心がけています。
    お褒めの言葉ありがとうございます。なんか照れますね(^^;。
    しかし私はコメントを書くのにも、すごく時間がかかってしまうんです(今も…)。おかげで日記やコメントを書くのを結局諦めてしまうこともしょっちゅうです。
    もっと早く、楽に書けるように(まとめられるように)なれたらと常々思っているのですが、なかなかです(泣)。

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