「遺す」ということ

昨夜のフジテレビ『NEWS JAPAN』で面白い特集をやっていました。

遺す人々

マタニティヌード(と言っても出しているのはお腹だけです)と生前の遺影写真撮影。
生命の輝きの瞬間を写真に遺そうとする人々と、彼らを写真に収めるカメラマンの思いに迫った特集でした。
どちらも以前から話題になっていますが、新しい生命を宿した妊婦さんと、リウマチで苦しむ女性や余命わずかのガン患者の女性という、対照的な生に同時に焦点を当てると、個別の特集では見えないものが見えました。
これら新しい流れの背景にあるのは、「失われる恐怖」ではないかと思います。

マタニティヌードは歌手のhitomiさんが火付け役となって、ちょっとしたブームになったと言われています。
これがブームで終わらずに根付くかどうかはわかりませんが、流行りだした頃にファッションとして面白おかしく取り上げられていたのに比べ、昨日の番組は丁寧に扱っていた印象です。
はじめこのブームを聞いた時は違和感を覚えましたが、昨日の特集を見て、妊婦さんの「幸せオーラ全開」の表情に以前感じた違和感は吹っ飛びました。本当に良い表情をされていたんですね、妊婦さん。

この写真のいいところはモノクロだったところ。
モノクロは粗を隠す一面もあるんですよね。秘められた思いが表情にありのままに表れ、逆に体の表面の余計なものは隠してくれるから、写真には幸せが全面に溢れる。
モノクロで肉体の生々しさを消すことによって、生命や魂みたいなものに焦点を当てているんだと思います。

彼女達が写真に遺しているのは、「幸せ」そのものなんですね。つまり、幸せを失うのが怖い、ということ。それが写真撮影の裏の理由だと思うんです。
幸せは永遠には続かないことを、誰もが知っています。結婚は永遠を前提でするものだけど、実際にその前提は覆されることも多い。
特に今は家族の在り方も変わってきています。それまで抱いていた家族のイメージが壊されてしまうなんてことは、稀なことではないんですよね。

写真を撮影する妊婦さん達の幸せはもちろん本物ですし、だからこそあんなに素敵な表情が湧いてくる。未来は輝くばかりの彼女達の話をするのに、こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、やはりその輝きの裏には同時に影も存在していると思うんです。
幸せは、得たら得たで失う不安に駆られるものだとも言われます。そのような不安が、写真という形あるものに遺すという行動に駆り立てているのではないかと思ったんです。

……なんというか、私ってひねくれてるなあ、とは思います。
でも「形あるもの」として残すということには、とても大きな意味があると思うんです。本来は無形であるはずのものを有形にするわけですから。
目に見えないと、どこか不安に駆られてしまう。
幸せを続けられる自信のなさの裏返しにも見えますし、今の幸せを変えてしまうかもしれない(将来の)自分や周囲に対する戒めにも見える。

過去の幸せが負担になることもある。
昨日放送で見た妊婦さんが無事に出産を迎え、幸せな家庭を築かれることを願っています。
同時に、撮影した写真が重荷となるのではなく、苦難を乗り越える力となってくれたら……
そう思わずにいられませんでした。

「遺影」
衰えていく自分を、余命わずかと言われた生命を、輝いている今のうちに写真に収めたい。
こちらはカラーでの撮影でした。当然といえば当然ですが、モノクロと比較することでカラーの意味が見えてきます。
カラーは、肉体の躍動感だったり、血の通う肌の艶やかさだったりを残すんです。まさに「今生きている証」がそこに残り、時が経てばそれらは「生きていた証」となるんですよね。

もうすぐ動かなくなるかもしれないからと、リウマチになった手を写して欲しいと願った女性。一生懸命縫った小物入れを胸に抱きしめて、笑顔でカメラの前に座っていました。
今生きる自分の姿を遺影(自分が生きていた証)として遺すことに、彼女は決めたんですね。「今」であることに意味があった。

肺ガンで余命わずかの女性は、できあがった遺影を息子と一緒に写真スタジオまで取りに行きます。
できあがった写真を見て、息子さんが言った言葉が印象的でした(台詞は大まかです)。
「うちはよく子供の誕生パーティなどに母を呼ぶんです。パーティの時は(母親の席に)この写真を飾ろうかな」
「私はまだ生きてるよ」
「いや、いなくなったらの話だよ」
二人の会話を聞いてカメラマン(スタジオのご主人)が感極まった表情で「いなくなったら、って言えるの、すごいね」と言った瞬間に、場の空気が妙なものとなりました。

息子さんはたぶん、自分の母親の遺影を見せられたことで、彼女の死が近付いていることを正面から突きつけられ、動揺してしまったんだと思うんです。軽く雑談でもするように笑いながらそう話したのは、母を失う恐怖の裏返しなのではないかと。
カメラマンに指摘され、改めて母がいなくなることの重さがのしかかり、二人とも黙り込んでしまった。

遺影に遺すものは、「生命」なんですね。それは確実になくなるもの。なくなるとわかっているわけです。
綺麗にお化粧をした血色の良い顔を、しかも笑顔を遺すということに、(自分が)失われる恐怖を乗り越えた、乗り越えようとする力のようなものを感じます。
そして、死が訪れた後の自分の姿(床の間に飾られ続ける遺影)を生きているうちに決めるという行為は、肉体的な命が失われてもなお生き続けたい、そんな思いも垣間見えます。

私には迫り来る死と闘う方々の思いは到底わかり得ません。しかし、スタジオに並べられたいろんな方の遺影の写真を見て、これまで生き抜いて来られた方々の、最後まで輝き貫こうとする生命の力強さを感じました。
そして皆さん、笑顔なんですよね。笑顔もまた、失いたくないものなんですよね。幸せの証でもあるから。
あの満面の笑みの裏には、私には計り知れない恐怖が隠されている。そんな風に見えました。とても奥深いというか、ただの笑顔ではないんです。何十年も生きてきた重みと、それが失われるという重みとがぴったりと重なり合って、とにかく深かった。

数週間前に世界遺産の番組を見て、「遺す」って何だろう、と考えていたところの昨日の特集でした。
世界遺産は、遺産を何世代にもわたって大切に守り続けてきた何万(億?)人もの人々の生き様でもあるんですよね。遺される遺産と、遺されることなく失われていったものの間に何の違いがあるのか、そんなことを考えていました。
個人は歴史の中では埋もれてしまうような小さな生ですけど、その中にもきちんと小さな歴史があって、写真に収めたものはまさしく個人にとっての世界遺産。「幸せ」も「生命」も、当人達の歴史なんです。

なぜ今「遺す」のか。
こういったことがビジネスとして成り立つ世の中になったことや死生観が変わってきていることなど、様々な要因があるとは思いますが、現代人は生きることに貪欲になっているのではないかと感じました。
ただ生きるだけではなく、どうやって生きるか、どうやって死ぬか、そういったことに自分の願望を反映させるというか。きっと、「ただ生きるだけ」では生きづらくなってきているのかな、と。

たぶん、昔よりずっと、生きることが「重い」時代なんだと思います。
せっかく生きているんだから、そこに意味や証を遺したい。
そう思わずにはいられない人が増えたんじゃないかな……。

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