初詣の帰り、どこかで一息つきたくなってカフェに寄ることにしました。ただ、コーヒーを飲むだけではもったいなく感じて、文庫本でも買おうと(読みかけの本を持たずに出たことをやや後悔)、まずは本屋に寄りました。最近新聞で目にして再読しようと思っていた本を買うつもりでいたのですが見つからず、代わりに手に取ったのが三島由紀夫の『潮騒』。
『金閣寺』に続いて二作目となる三島由紀夫の作品は、私にしては珍しく一日で読み終えました。
以下、超ネタバレ。
物語は三重県の歌島(架空の島ですが、実在する神島という島がモデルのようです)という小島が舞台。そこで繰り広げられる一つの淡い初恋が主軸となります。
主人公の新治は十八歳、考えることが苦手な漁師。彼の初恋の相手となるのが、島の金持ち宮田照吉の娘・初江。
この二人の運命的な浜辺での出会いから、二人の恋路を邪魔する数々の障害、それらを乗り越えていく様が、小さな島の人間模様と雄大な自然と絡めて、とても鮮やかに描かれます。
純朴な少年少女の恋模様は古くから使い回されたプロット(解説ではギリシャの『ダフニスとクロエ』と比較している)でしたが、それがかえって新鮮でもあり(しかも三島由紀夫)、二人の前に立ちはだかる障害がどのように解決されていくのか、その過程はまるで冒険小説でも読むかのようなワクワクとドキドキを与えてくれ、ページをめくる指を止めることができませんでした。
唐突な初めてのキス、裸になっても抱き合うだけで終わってしまう二人だけの夜。
女の「お」の字も知らない、いや、「恋」さえもそれが何を指すのかわからない新治と、かたくなに純血を守ろうとする初江の恋は、ただただ瑞々しく、応援せずにはいられません。つまらないプライドで初江を犯そうとする新治のライバル(?)安夫の悲劇には、思わず「ざまあみろ」と言いたくなるほど。
悪意のある噂から一度は引き裂かれかけた恋にも、いつしか味方が増えていきます。周囲の人間の温かな応援、新治の母が初江を息子の相手として認めるエピソードにはぐっときます。
島の狭い人間関係の弊害と美点、その両方がうまく描かれているように思いました。悪い人間がほとんどいないのも(安夫も憎たらしいが、嫌いにはなれない)、最後まで気持ちよく読むことのできた理由かと思います。
恋だけでなく、海の男として大海へ出て行く新治の成長も見所です。
初めて歌島を離れ、沖縄までの大きな航海に出た新治。沖縄では嵐との壮絶な闘いを繰り広げます。
おぼろげな夢が「一等航海士」という目標に変わることとなったその経験は、もしかしたら初江との恋よりもずっと大きなものだったかもしれません。
物語の最後の一文によって、それは示されます。最後の最後に、初恋を実らせた二人の幸せを祝う読者に、二人のその後に薄く漂う影を暗示するかのような一文が仕掛けられており、正直参りました。
青春はいつしか終わる、だからこそ輝くもの。
そう教えてくれるような最後は、少し胸に冷たく染み入りました。
新治や初江の家族、新治の親方や仲間。男は漁師、女は海女として、海と共に生きる島の人々の生活も、日焼けした肌が太陽に負けない眩しさを放って生き生きと描かれています。
新治たちによる漁の場面も、海女として島の女たちが集まった浜辺の場面も、躍動感に満ちた印象的な場面でした。「労働」──それもただの労働ではなく、自然と共にある労働、つまり生物としての人間の営み──の喜びを感じさせてくれました。
そして、この小説で特に目を引いたのが、どのような場面においても性欲というか色欲といったものが感じられないことでした。
それは新治と初江の初めてのキスや、裸で抱き合いながら一線を越えない場面で特に顕著でしたし、思わぬ敵の出現で頓挫してしまった安夫の初江に対する暴行未遂の場面でもそうでした。
海女の場面では、浜辺で上半身を露わにした女たちが互いの乳房の形や大きさを比べる場面があります。そこでもエロティックなものは一切感じられず、ただ「健康」な女たちの姿がありました。
それは若い娘から年を重ねた老婆まで変わらず、女たちの明け透けな会話は豪快でさえありました。そこにはただ、海と共にたくましく生きる人間の生き様が描かれていたんですね。
徹底的に汚れを排除しているように感じました。
ところどころに散りばめられているコメディ要素も、物語をより楽しくさせていました。新治の弟・宏の初めての修学旅行などは、思わず頬が緩んでしまいます。
それは悲哀も含まれた可笑しさではありますが、素直に笑いたいと思いました。こうした小さな失敗もまた、青春の一ページとして刻まれていくんですよね。
場面だけでなく一描写にも、くすっと笑える箇所がいくつもあります。そういった小さな笑いの積み重ねが、読者を飽きさせないのかもしれません。
前述のように、三島由紀夫の作品を読むのはこれで二作目です。初めて読んだ作品である『金閣寺』は、内容よりも鼻につくほどの「頭の良い文章」が(主人公の性格のせいもあるのか)印象に残ったのですが、今作も作者の頭の良さを感じさせる文章でした。
理路整然とした物語構成、無駄のない(一言がきらりと光る)描写、隙を探そうにも見つからない。それでいて堅苦しさなど一つもなく、読みやすく、かといって安っぽさを感じさせないんです。
感性云々を語る前にまず、知性を感じさせる文章でした。
計算し尽くされた文章に、歌島の風景がありのままに目の前に表れます。
潮騒が香りと共に目の前をかすめていき、日焼けした健康的な肌を持つ住民達が駆けていく。
私も島で暮らしていたことがありますし、小さな島の真っ青な海と潮の香り、太陽の輝きは体がしっかりと覚えています。もう何年も体感していないそれらが恋しくなってしまいました。
真冬に読むにはやや季節外れにも感じましたが、なかなか太陽の温かい日差しを浴びられない季節だからこそ、青空と海と太陽がより一層輝いてみえた物語でした。
また、これほど瑞々しい物語に出会うことは滅多にないので、正直言って驚きました。そして偶然手に取ったのがこの本であったことに喜びを感じています。
清々しい読後感。読み終えてもう何時間も経ちますが、心はまだ清涼感で満たされています。