『つみきのいえ』

昨年、この作品がアカデミー賞を獲得した直後にDVDを購入していたのですが、なかなか見る機会を作れずに、年が明けてやっと見ることができました。
温もりのあるタッチの絵と違い、物語は悲哀に満ちたものでした。

オスカー後繰り返しマスコミ等で伝えられていたように、この作品は水に沈む街で家を増築しながら暮らす一人のおじいさんの物語です。
家を増築する過程でおじいさんが過去を振り返っていく──内容については、そこまでは知っていました。
実際に見てみて、あらすじを説明するとすればそのようになるんですが、思っていた以上にこの12分の物語は濃密であったし、様々なことを考えさせられるものでした。
初めて見た短編アニメでしたが、こんな世界もあるのかという驚きも大きかったです。

というわけで、以下、いつものように超ネタバレ。
少しでも興味があって見ようと考えておられる方は、読まないほうがいいかも。

※  ※  ※

海面が上昇し続ける街。多くの家が沈んでしまったこの街で、水が増えるたびに増築を繰り返して、決してその場所を離れることなく住み続けている一人のおじいさんがいました。
おじいさんの小さな部屋と日常の紹介から、この物語は始まります。

ある日、おじいさんが目を覚ますと、海面がまた上昇し、部屋の中が水浸しになっていました。再び増築をすることを決めたおじいさんは、一人でレンガを積んでいきます。
新しい部屋ができあがり、引っ越しをすることになった日。思わぬ拍子でお気に入りのパイプを水の中に落としてしまいました。しかも、拾おうにも手の届かない深さのところに落ちてしまったのです。
そのパイプは諦め、他のパイプを使おうと思い立ちます。しかし、しっくりくるのが見つかりません。そんな彼の目に、横を通りかかった(?)役人(ぽい人)のダイビングスーツが留まります。
ダイビングスーツを借りたか購入した彼は、それを身にまとい、パイプを拾いに水の中へと潜っていきます。
そこで、彼はこれまでこの家で過ごしてきた日々を思い出すのです。

思い出はおばあさんと二人きりの暮らしから始まり、子供や孫たちとの写真撮影、子供が結婚相手を連れてきた日のこと、子供が家を出て行った日のこと、そして最後はおばあさんとの出会いまで遡ります。
ほんのわずかな映像でしか語られないその思い出から、おじいさんの頑固な人柄、おばあさんの優しさが伝わってきます。
そして(ここからは私の解釈です)、おじいさんはその頑固さ故にこの土地に留まっていること、思い出だけを頼りに生きている、ということに気付かされます。

振り返る思い出の数々は温かさに満ちていて、思わず頬が緩んでしまいます。でも、回想が終わりかける頃には悲しみが押し寄せていて、温かな思い出はそれこそ水に濡れてしまい、冷たいものへと変わっているんです。
おじいさんには子供も孫もいるはずなのに、彼らは回想でしか出てこない。
おじいさんとおばあさんが二人で建てた小さな家は、家族が増えると大きく増築され、それは次第に小さくなっていた。今はおじいさん一人だけが住めるほどの小さな家。小さな部屋。

与えられた情報が少ないだけに、見る側が自由に受け取ることができます。人によって様々な感想を抱くことと思います。
私が感じたのは、思い出だけを頼りに生きることの悲哀でした。
背中が大きく曲がったおじいさんがダイビングスーツを身にまとって潜る姿など、なかなか想像できることではありません。
住人もわずかにしかいない街で、空と海しかない世界で、水の中に沈んでしまい再び蘇ることはない思い出だけを胸に、ここまで生き続けられるのだろうかと、そんなことを考えてしまいました。

この物語は象徴的なものなので、そんなことを考えるのは野暮ですが、過去と未来、その間で自分はどのように生きるのか、そんなことを問うているように思いました。
手作り感漂う温かなタッチの絵から想像していた、心温まる物語ではありませんでした。最後のシーンは、おじいさんのこれからが全く見えず、不安が呼び起こされるほどでした。

しかし、物語以上にすごいと思ったのは、言葉がないことがこれだけ物語の世界を広げられる、ということでした。

言葉というのはコミュニケーションのツールであると同時に「壁」にもなります。その壁を取っ払うことで、この作品がより多くの人に、より多くの解釈を与えているのだと思うと、「ああ、すごいなあ」って。言葉がないほうがずっと広い世界を作り上げることができるんだ、と感動しました。
言葉の表現に興味を持つ私としては、「言葉が(時として)不要である」という事実は残酷にも思うのですが、それよりも言葉がない世界の大きさを知ることができたことに喜びを感じました。

おじいさんの名前はおろか年齢も人種も、住んでいる地域(ヨーロッパっぽいけど)も時代も、何もかもわからないままなのに、そこにおじいさんの人生があって、過去には家族があって、思い出があって……。
それだけで世界中の人々に感動を与えられる、いや、それだからこそ与えられるのかもしれない。
これは「シンプル」というものの可能性を示しているようにも感じました。

複雑で難解なもののほうがより多くの思想やら何やらといったありがたい事を含んでいるかというと、必ずしもそうだとは限らないと思います。
シンプルなもののほうが受け手の解釈は広がると思うんです。そういった意味で、より多くの可能性を秘めているし、そこから広がる世界というのは複雑難解なものよりもずっと無限に近いのではないかと思いました。

映画に限らず、音楽でも絵画でも小説でも何でも、作り手と受け手の双方があって初めて成り立つものは、いくら作り手が作品に多くのものを詰め込んでも、それが受け手に伝わらなければ何にもなりません。
その点、シンプルなものはどんな人々にも伝わりやすいですし、多くの受け手がそれぞれの考えを持つことができます。それはつまり、作品がそれだけ広がることを意味していると思うんです。

シンプルな作品でどれだけ多くのことを受け手に与えられるか。

「シンプルであればいい」というわけではなく、良質のシンプルとでも言えばいいのか、シンプルの中にどれだけの可能性が含まれているかが、良いシンプルと悪いシンプルの境目になるような気がします。
あまりにも簡素ではかえって受け手の想像力を狭めてしまいます(そこから何を考えればいいのかわからなくなる)。ある程度の情報があってこそ想像力は掻き立てられるから、何を与え、何を隠すかというバランスが重要となってくる。

『つみきのいえ』はそのバランスがとても良いんだと思います。
おじいさんの回想は、誰しもが心に抱える思い出と共通するもので、おじいさんに自分自身を重ねてしまう瞬間があるのではないかと思います。そしてそれは、おじいさんの身元が明らかではないからこそ、重ねやすくなっていると思うんです。
水に沈みゆく街というのも多くの人にとっては非現実的なんですが、その理由が語られないことによって、水に沈む「街」は「過去」や「思い出」「大切なもの」にたやすく置き換えることができる(ここに例えば温暖化なんて情報が入ってしまえば、そう簡単に置き換えができなくなるように思うんです)。
置き換えたら、それは決して非現実的な世界ではなくなるんですよね。
もう手の届かない過去、思い出、大切なもの……。

「おじいさんの物語」で終わらせるのではなく、そこに多くの人々の人生を重ねさせることができたのは、余計なものを排除することに成功したからなのではないかと思いました。

いろんなものを見てしまった作品でした。
これまで短編アニメーション、あるいは台詞のない映画というのは見たことがありませんでした。たった12分の中にこんなに豊かなものが含まれていて、それがまったく言葉を介さずになされているというのは、ただただ驚くばかりでした。
そういうことが「ありえる」と考えることはできても、実際に体感することはできないんですよね、なかなか。そういうものを求めることも今までなかったですし、どうすれば体感できるかと考えることだって当然なくて。
たぶん加藤監督が鹿児島出身でなかったら、この作品を買うことはなかったと思います。購入した理由は、同郷の加藤監督を応援できたらという思いからでしたので(なんて単純な!)。

そして、絵ですね。いわゆる日本のアニメとは全く違うタッチも初めて見るものでしたから、ああいった絵が動くということ自体に驚いてしまいました(もう全てが初めてなわけですよ、ははは)。
とてもきめ細やかで、絵画を見る時のように画面に釘付けになってしまいました。場面が動いてしまうのが惜しいくらい。
音楽も弦とピアノのシンプルな曲で良かったです。

今まで知らなかった表現の世界を知ることができて、とても嬉しいです。
何というか、きっかけって大事ですね。どんな些細なことでもいいからきっかけを作り、未知の世界に足を踏み入れてみることは大切かもしれません。
加藤監督の他の作品も買ってみようかと思います。

そうそう、DVDにはナレーション付きのバージョンも収められてあります。
ナレーションは長澤まさみがつとめていて、見る前は「どうなんだろう」と思っていましたが、なかなか良かったです。
まずはナレーションなしで見て、その後ナレーション付きを見てみるといいと思います。新しい発見があります。

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