電車の話になるとどうしても湿っぽくなってしまうのは、私と電車の関係があまりいいものではないから。
誰かに会いに行く時、ストレスに押し潰されそうだった時。
今も街へ出かけるときに電車を利用するけど、一駅二駅乗っているだけの時間に特別な意味はなくて、一時間二時間と揺られる時間こそが、特別なものになっていく。
私はその日、川を見るために電車に乗った。
目的地まで、たぶん、一時間近く電車に揺られていた。
時間を気にしない性格なので、電車に乗った時刻を記録していても、降りた時間は記録していなかった。降りたときに時計を見た記憶さえない。
降車駅の前の前の駅を通過する頃、緊張していたのは覚えている。
この土地に来て初めての、小さな鉄道の旅だった。
窓の外に見える景色もほとんどが初めて。新鮮さの中に、でもどこか遠い昔を思い出させるものがあった。
「電車に揺られる」という状況がいろんなものを蘇らせる。必要以上に感傷的になって、心は疲れた。
電車とバスを乗り継いで二時間かけて恋人に会いに行った記憶には、喜びよりも不安のほうが刻まれている。
このままでいいのか、と。
二人の間に流れる大きな川を電車が渡る時に、ひらけた空を見てぼんやりと思った。
乗り越えなければならないものがそこにはあって、でも乗り越えるのを、私は諦めた。
静かに電車を降りた。
相手は引き留めてはくれなかった。
朝の六時にホームに立ち、始発から何番目かの電車に乗って、一時間かけて通勤していた記憶は、ただ憂鬱なものでしかない。
窓から見えた朝焼けだけが、救いだった。
手入れされなくなって荒れた田畑の跡を見つめながら、何か違うと感じていた。夏が秋になり、秋が冬になった時、私は辞めることを決断した。
最後の電車を降りた時、ホッとした。ただただ、ホッとした。
軽くはない足取りで、川辺を歩いた。
近くに行くと水の音がして、少し離れると刈られたばかりの草の匂いがした。
懐かしくも新しくもない風景で、ただ広いことに圧倒され、霞む空を恨み、走る人たち、歩く人たちを眺めていた。
スーツ姿でぼんやりと川を眺める中年男性がいた。
普段の私なら、こんな場所で一人佇む彼を見て思わずにはいられないはずだった。彼はなぜここにいるんだろう、どんな人生を送っているんだろう、と。
それなのに、この日の私は、ただ彼の姿を視界の片隅に置いただけだった。それだけだった。
川を、ただ眺めて、時折橋を見上げて、いくらかの時間を過ごした。
それが何分だったかはわからない。
満足した頃に、私は川のそばを離れて、草の匂いが充満する芝生の上をあてもなく歩いた。
歩いて、疲れだした頃にベンチに座り、またぼんやりと空を見上げた。
霞む空を憎み、雲に隠れた太陽が最後の意地で放つ光に少し感動した。
あの空は、私の心や頭や体だったかもしれない。
あんな風に、私は重かった。
憂鬱だった気分を晴らすための旅だったのに、行きより重くなっていた。
でも、悪くはなかった。
どこか心地よい鈍さだった。
私は川を後にした。
バスに乗りそびれて、駅まで何十分か歩いた。珍しく、道に迷わなかった。
帰りの電車の中では、何も思わなかった。
前に座る若い女性が頭を窓に預けていて、「疲れたんだね」と、それだけを思った。