つまり写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている二つの目のほかに、もう一つ別な新しい目を持って歩くということになるのである。
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久しぶりに青空文庫に行ってきました。
青空文庫はご存知の方も多いと思いますが、著作権の切れた作品などをテキストやHTML化してネット上で自由に閲覧できるようにした、いわゆる「インターネット図書館」のようなところです。
寺田寅彦はその青空文庫の中でも、多くの作品が公開されている作家の一人です。戦前活躍した物理学者で、夏目漱石とも親しくしており、数多くの随筆を残している随筆家でもあります。
彼の作品は、もう何年も前にお世話になった人に薦められたのがきっかけで読むようになりました。(とは言っても、まだ何編かの随筆しか読んでいないのですが…)
先日なんとなく読みたくなって青空文庫を覗いてみたところ、『カメラをさげて』という興味深いタイトルを見つけ、思わず開いてしまいました。(全文はこちらから)
このごろ時々写真機をさげて新東京風景断片の採集に出かける。技術の未熟なために失敗ばかり多くて獲物ははなはだ少ない。しかし写真をとろうという気で町を歩いていると、今までは少しも気のつかずにいたいろいろの現象や事実が急に目に立って見えて来る。つまり写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている二つの目のほかに、もう一つ別な新しい目を持って歩くということになるのである。
冒頭に引用したのは、その文章の冒頭部分の一文です。
まさに、今の私が感じているそのままが書かれていたので、びっくりしてしまいました。
この作品は昭和6年(1931年)に書かれたものですが、80年前も今も、カメラを手にした人々の気持ちというのは変わらないんですね。
さらに、顕微鏡を覗いても世界が変わることに触れつつ(この辺りは学者らしい)、下記のように続きます。
写真機の目の特異性はこれとはまただいぶちがった方面にある。(略)現実の世界からあらゆる色彩を奪ってしまう。そうして空間を平面に押しひしいでしまう。
そう、当時のカメラは白黒だったんですね。
当時の人が初めて白黒の写真を見た時は、どんな驚きがあったのでしょうか。
そうして、その上にその平面の中のある特別な長方形の部分だけを切り抜いて、残る全部の大千世界を惜しげもなくむざむざと捨ててしまうのである。実に乱暴にぜいたくな目である。それだけに、なろう事ならその限られた長方形の中に、切り捨てた世界をもいっしょに押し縮めたようなものを収めたくなるのである。
写っている風景や人々の歴史、思い…そういったものが伝わってくる写真は、「切り捨てた世界をもいっしょに押し縮めた」写真なんでしょう。
私もそんな写真を撮れるようになりたいです。。
…と、こんな感じで、カメラをさげて歩く時の思いや、東京という街、そして日本に対する寺田寅彦の熱い思いが最後まで語られています。
日本を贔屓するあまり(?)、読んでいて首をかしげてしまう表現も出てくるので、後半の文章はあまり好きではないのですが、上で引用した箇所は、カメラが人々を魅了する理由がとてもわかりやすく書かれていると思います。
興味を持たれた方は、読んでみてください。短いのですぐ読めます。
もし彼が現代のカメラを手にしたら、どんな文章を書くのでしょうね。