川端康成『雪国』(2022)

昨年、2014年に書いた川端康成著『雪国』への感想記事のアクセス数が突然増えた。
それまでは年に2桁もいけばいいくらいだったのに、昨年だけで2500回近く閲覧されたのだ。理由はわからない。どこかで誰かが紹介してくれたのかもしれないが、それをわざわざ探るのも怖いので、ただ増えていく数字を眺めている。(それ以来、1か月あたりのPV数も若干増加傾向にある。ウェブの検索でヒットしやすくなった?ようだ)
遠い日の忘れかけた記事に突然アクセスがあると、何を書いていたのか不安になって読み返すのはいつものこと。ひさしぶりにその記事を読み返し、ああ、こんなことを書いていたのねと、少し恥ずかしくなった。

『雪国』は2010年あたりから2015年まで毎年読んでいて、短い期間だが一年の恒例行事となっていた。ただ、2016年は読めず、2017年に読んで以来、本棚にしまいっぱなしとなっていた。
昨年急に感想記事にアクセスが増えたことと、他にも思うところがあって、年末年始に約6年振りに読んだので、今回思ったことなどを記録しておく。

過去の感想文などを読んでみると、私の『雪国』に対する印象は以下のように変化しているようだ。

雪国の四季折々を描いた描写に圧倒される

島村と駒子に共感し始める

島村と駒子が他人とは思えなくなってくる

この作品の主役はタイトル通り「雪国」だ。島村と駒子の物語は添え物、とまでは言わないが、あまり必然性は感じられない。しかし私は二人の物語、というより、それぞれの人物像に惹かれずにはいられなくて、雪国と島村と駒子の間を行ったり来たりしながら読んできた。
約6年ぶりに読んだ今回も、思うことはこれまでとさほど変わりはしなかった。
一つだけ違ったのは、何回も再読してきたのを少し後悔したことだ。私はこの作品にとらわれている。

2014、2015年くらいから、私は島村と駒子に異様なほど共感するようになっていた。(当ブログではないが別の場所に)「何事にも深入りせず、浅い快楽に酔った生き方しかできない島村はまんま私に重なるので、島村と駒子と私で傷を舐め合ってるような気がして」とまで書いている。つい先日この言葉を目にし(それもひさしぶりのことだった)、ぎょっとしてしまった。
さすがに今回は「傷を舐め合っている」などと思うことはなかったが、やはり二人に親近感を覚えずにはいられなかった。ただ、駒子は遠くなっていき、より島村に近づいているのを感じた。

何度目かになる再読が終わってから、この作品に出会っていなかったら私はどうなっていただろう、とふと思って、その考えの馬鹿馬鹿しさに笑った。
ただ繰り返し読んでいるだけ。それも、決して多いとは言えない回数だ。(あまり本を読まない私にとっては多いが)
ただそれだけなのに。出会っていなければ違う人生があったかのように錯覚してしまいそうになる。ほんとうに可笑しい。
たまたま好きになった作家の作品の一つに、自分と似た登場人物がいて、何度も繰り返し読んでいるうちに他人とは思えなくなってきた、それだけのことなのに。そこに運命的なものを感じてしまうのは一体何故なのだろう。

――そうやってあれこれ考えているうちに、「読みすぎた」と思った。
読みすぎて、考えすぎたのかもしれない。

川端康成は好きな作家の一人に挙げていたが、いまも挙げられるかというと迷う。
もう何年も彼の作品にはほとんど触れていない。特にここ数年、私自身の考えが大きく変わり、彼の作品で描かれているものに嫌悪感を覚えるようになった。『雪国』もそうだ。正直「これはないな」と思ってしまう描写もあるのだ。
それでもなお、この作品は私をとらえて離さない。
死ぬまでこの作品との「付き合い」は続くのだろうか。
縁を切ることはいつだってできる。いますぐにでも、できるはずなのに。

……ここまで書いて、思い出す。
私は島村に自分自身だけでなく、ある人を重ねているのだった。その人のことを忘れない限り、この「付き合い」は続くだろうし、忘れる日は当分訪れはしないだろう。

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