自分では「それらしきもの」を書くのが好きなのに、他人のそれを読むのは苦手だった。
数年前に手に入れたものの、なかなか読み進めることができず、しおりを挟んだまま本棚の奥にしまい込んでいた一冊の詩集があった。
先週から、再び読み始めている。
詩集というのは、一日一篇ずつ読む、という読み方をすればいいらしい。
それを知り、一日一篇、気が向いたら追加で数篇、読むことにした。
読むのは朝。仕事に行く前にページをめくる。
そういう読み方をするようになって、以前は苦痛にすら感じていたものが、不思議と読めるようになった。
「詩」だから、一つ一つは短い作品だから、一気に読んでしまえるだろうと思っていたが、そうではなかった。
短い言葉に感情が濃縮されているからだろうか。一度に読もうとすると、押し寄せる感情を受け止められずに、跳ね返してしまう。
それがわからずに、無理やり読もうとしていたのがよくなかったようだ。
また、そのときはまだ読むタイミングではなかったのかもしれない。いまのほうが、言葉が切実に身に染みる。
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私は生活感のある言葉に惹かれるようだ。
「物語」よりも「生活」、「思い」よりも「息づかい」、とでも言えばいいのか。
「思い」など押し殺して、過ぎていく日々の中で、自分の意志で動かせるものは息だけかもしれない。
昨日、公園のベンチに腰掛け、目を閉じ、息をした。
冬の冷気を鼻で吸い、口から吐き出す。吐き出されたものは私の何か。
瞼を通して、冬の西日が眼球に優しく届く。
そのぬくもりが気持ちよく、しばらく目を閉じたまま呼吸を繰り返していた。
いい時間だった。
頭をパニックに陥れていたあらゆる事柄がきれいに、その時間だけは消えていた。
いまの私にとって「癒し」と呼べるものは、静かな場所で耳を澄まして行う、呼吸だけである。
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写真は昨日公園で撮った池の底。