誕生日の憂鬱、そして父の日

ほぼ絶縁状態にある父から、年に一度だけメッセージが届く。

誕生日おめでとう
元気してる?
お母さんは元気?
寒いから体に気をつけてね

毎年変わらない内容のメッセージに、私も変わらない返事を返す。

ありがとう。なんとか元気でやってます――

このやりとりは私にとって憂鬱なものでしかなかったのだが、昨年の誕生日、私はそのときを待ち侘びていた。父に言いたいことがあったからだ。
でも結局、言いたかったことは何も言えずに終わってしまった。

あれから半年が経つ。
もうすぐ父の日だ。この日が私にとって意味のない日となってから、何年経つだろう。

いつかの、父の愛人の子どもは、いま元気にしているのだろうかと考えるようになった。当時は相手の子どものことなんて何も思わなかったのに。
一度も会ったことはないし、顔も名前も性別も知らないけれど、確かにあのとき交わってしまった人生の、その後を思う。幸せに過ごしているだろうかと。
同じ人を「おとうさん」と呼んでいた、ただその一点において、私たちの人生は交差した。

きっと、私より幼かったはず。
「おとうさん」が突然来なくなって、ショックを受けただろう。どうやってその衝撃と悲しみに向き合ったのだろうか。
それとも、「やっと来なくなった」と清々していただろうか。

あやふやな記憶の中で、彼あるいは彼女が書いた父への手紙が浮かび上がる。

「おとうさん いつもありがとう」

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