毎年恒例になってきた(?)、川端康成『雪国』の再読。
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初めて読んだのは10年ほど前になるのでしょうか、詳しくは覚えていませんが、学生の頃。
その時はこれが傑作とされる理由がわからず、何も感じなかったのですが、なぜか惹かれるように何度も手に取り、いつしか川端さんの作品の中で一番好きな作品となりました。
4年くらい前から毎年読むようになって、今年は冬も去りかけのこの時期となりました。
読後感は昨年とあまり変わりません。ただ、駒子について、その哀しさよりも恐さの方が、今回は印象に残りました。
以前から疑問に思っていた、駒子の葉子に対する態度。それが少しわかってきました。
「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」
駒子のこの葉子評は、そのまま駒子に当てはまるのではないかと思います。
特に酒が入ると自分自身を抑えきれなくなる駒子。彼女の取り乱し方は痛々しく、哀しく、そして狂気的です。「身の危険を感じる」という狂気ではなく、掴みどころのないというか、得体のしれない不安に駆られる狂気。それは葉子ととても似ていると思うんです。
駒子が葉子に冷たい態度をとるのは、彼女の中に自分を見てしまうからでしょう。それも、自分の「負」の部分を。
ラスト、葉子は炎に包まれた繭倉の2階から落ちます。気を失った葉子のもとへ駆け寄る駒子は、取り乱して叫びます。
「この子、気が違うわ。気が違うわ」
このセリフ、私には駒子が自分自身に言っているように感じました。向こうへ行ってしまいそうな自分を、必死で呼び戻すように。
葉子のその後は語られませんが、たとえ無事だとしても、彼女が駒子と同じような道を辿るのは、もう明らかなんですね。
駒子は、葉子の中に自分と同じ哀しみが流れていることに耐えられなかったのではないかと思います。
駒子と島村の恋愛模様(?)についてですが、この2人はたとえ出会っていなくても、2人の未来は大きくは変わらなかったでしょう。2人の関係は愛などと呼べるものではなく、やはり戯れでしかないように思います。葉子が駒子の人生に与える影響に比べれば、島村の存在は駒子にとって、そう重要ではないのではないかと。
読みながら、
「なぜ駒子はこんな男に惹かれるんだろう?」
と思ったこともありました。
それは、性が合う、ただそれだけであって、特別島村に魅力があるというわけではないのだと、今回思いました。他に頼れる人がいない駒子は、年に一度しか来ない別世界で生きるこの男に、その存在が自分にとって非現実的であるがゆえに、惹かれてしまったのだと思います。
島村にとって駒子の存在は、甘い思い出といったところ。別れた後も、時々思い出しては指を眺めたりするのでしょう…。
駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。
島村は、自己愛の強い人物に見えます。行き場のない運命を背負った悲しい女性(駒子)に求められる自分に虚しさを感じながら、その虚しさに快感を覚えるような、そんな人。
そして彼は、自分を大きく傷つけずに生きる術を知っています。
仕事に対する姿勢も、駒子への態度も、責任を負わずにすむギリギリの立場をとっている。
無責任な生き方だなあ、と思うんですね。
でも、どこか私自身にも通じる部分があって、だから、読んでいてイラッとする(笑)。
再読を重ねるにつれ、駒子と島村、2人の関係性よりも、それぞれの生き方に焦点をあてた読み方をするようになってきました。
読む度に、2人の言動の中に私自身との共通点を見つけます。それは「共感」とも言うもので、この小さな共感がいくつも発見されることによって、私はこの作品からますます離れられなくなっていく。その繰り返しです。
以前は、漠然と川端さんの世界に浸りたいと思って読んでいましたけど、今回は2人に会いたくて読みました。
もう他人とは思えない存在になりつつあります。
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…私はテクニカルに読めないし、語れないんだなあとつくづく思いました。
自分の目で見てきたこと、感じてきたこと、考えてきたこと。
それらを本の中に見つけることで、自分自身を見つめ直すきっかけをつくる。そのために本を読んでいるのかもしれません。